表題の映画は見ていない。ただ、日経BP社サイトの「2000万人の貧困」特集記事の一つ「映画『子宮に沈める』が示すもの」に登場したので、それを読んだだけである。
2010年に起きた、マンションに幼い二児が置き去りにされ餓死した事件を題材にした「フィクション」である。子どもたちがどんな様子だったのかは、今となっては誰にもほとんど分からないので、それをフィクションとして作り上げた映画だ。
その映画のシーンが写真一枚と10行にも満たない文で語られているのだが、それを途中まで読んで、「あ、いかん。このまま読んだら、夜寝られなくなる」と思ってしまった。仕事の帰り際に読んでいたことや、その胸が詰まる内容に負けて、途中で読むのをやめてしまった。
とはいえこのまま読まずに済ますことは出来ない、と思い、昼間なら耐えられるだろうということで、数日後にやっと読んだ。
フィクションだから本当とは違うのだろう。ただ、ひたすら親を待つ子どもたちの様子は、今も読むのに勇気がいる。
記事そのものはその映画の紹介ではなく、個々人のつながりが薄くなる中で、実際の所は何が起きているのかを表に出そうとする監督の思いを伝えるものだった。また、他の事例も含め「支援するべき人とそうではない人を選別しようとしている」社会になりつつあるが、それでよいのか、と問いかけるものだ。
確かに、もし事件が無ければ、この子の親は支援すべき人ではない、と見なされた可能性が高い。ということは、行動で人を選別する社会では、この子たちは死ぬしか無かったのか?
と考えさせられる重い記事だった。記事には副題として「監督が語る『見えないものを見る』価値」とあった。私は見えないものを見ようとしているだろうか?
いつまた読む気力が出るか分からないが、PDFにはしておこうと思う。