でーれーすげーげー

岐阜県岐阜市に在住です。ブログ名は、岐阜市近辺の方言で、とても感嘆したときに発する言葉です。

お節介力の低下

今日は久しぶりに、熱田神宮に参りに行った。

一昨年暮れから昨年初めにかけては、頻繁に行ったのだが、息子の高校合格が決まってからは、遠のいていた (^^;。体力作りや、「ニチボダイエット」も始めた(笑) http://d.hatena.ne.jp/assoman/20110119/1295444224 ため、久々に出かけたのでした。

拝殿に「ニチボ」の勢いで近づき、参ってから同じ勢いで帰ろうとした時、拝殿前にいた若い男性に、声をかけられた。

「すみません。熱田神宮にまつられている神様は、何かご存じでしょうか?」

んんんんんんー、何だろう。改めて考えると、知らなかったりして。地元の加納天満宮なら「菅原道真ですよ」と答えられるのだが。

「あー、ごめんなさい。ご神体は知りません。草薙の剣がまつられているのは知ってんですけれどね〜」
「あー」
「神社のパンフもあったから、探してみたらどうですか」
「そうですか。ありがとうございます」。

そこで別れてしまった。別れてしばらく歩きながら、だんだん、自分に情けなくなってきた。時間的な制約があったわけではない。知識はなかったのは確かだが、求めるすべは想像が付いた。夜遅くだったが、社務所に人がいるのは知っているし、探せば熱田神宮の由来を記した看板もあるような気がする。

お節介心があれば、彼の疑問を一緒に探求できたはずである。

若い頃は、その「お節介心」、名付けて「お節介力」がもっとあったように思う。いつからなくなったのだろう?。彼に対する応答を振り返ると、「何ら役に立たない」と言うことが分かる。お節介力があれば、もっと言えたことがあったのだ。「社務所は遅くまで空いているから」とか「看板あったはずですよ」とか「いっぱいお社あるから、色々参ってみたら?」などなど。

お節介力、ある意味好奇心、人との繋がり力、いろいろ言い方はあるが、根底では繋がる。それが失われていませんか?。ちょっと復活させてみませんか?。

事の後から、いろいろ考えさせられる事例でした。