でーれーすげーげー

岐阜県岐阜市に在住です。ブログ名は、岐阜市近辺の方言で、とても感嘆したときに発する言葉です。

スマホ脳

スマホ脳、という本が売れているようだ。

今日の新聞にその広告が載っていて、いくつか箇条書きで抜粋があるのだが、「そばにあるだけで、学習効果、記憶力、集中力は下がる」「そばにあるだけで、目の前の相手への共感度は下がる」「そばにあるだけで、食事の満足度は下がる」など、あるあるだなぁ、と思うことがいっぱい書いてある。

同じような言葉で、「ゲーム脳」という言葉があったのはもう10年も20年も前のことだろうか。しかし、「ゲーム脳」ということばを発すると、とたんに「『ゲーム脳』などありえない!」という人が現れて、「ゲーム脳」の議論はまともにされなかったような気がする。

それに比べると「スマホ脳」ということばは、それほど抵抗感を受けたり「スマホ脳などありえない!」という人が現れてまくし立てることはないようだ。

なぜだろう? ゲーム脳の時は、ゲームに依存してしまう人は特殊な若者だけであり、全体の問題ではない。ゲーム脳などと言う新しい現象ではなく、単に意思が弱いだけの問題だ、と思われていたのではないだろうか。

これまで、依存症と言えばアルコール依存症とかギャンブル依存症などがあるが、日本では「特殊な人たちの特殊な嗜好の結果」と考えられていて、誰もがかかるかも知れない病気、とはとらえられなかった(もちろんそう主張する人は少なからずいたが)。ゲーム脳の言葉もその範疇でとらえられたのだろう。

しかし、ゲーム機とは比べものにならないほど普及したスマホにより、誰もが「依存症の入り口」を覗くようになった。「これはまずいのではないか?」と漠然と思いながらも離れられない人が増えた。そこに現れた「スマホ脳」という言葉が、自分たちの状況かも知れない、と感じる人が多く、反発が少ないのだろう。

どうしたらよいのか、私には分からないし、分かる人は少ないだろう。今まで、依存症は意思の弱い人の個人問題、と思って、その要因解析や対策立案をまともに進めてこなかった結果、「病気としての依存症」についての知見が少ないように思う。

せめて、よく似た「ゲーム脳」の議論の時に「ゲーム脳などありえない!」と突き放すのではなく「依存症」という視点で捉えて考えていれば、今、もう少しスマホとのつきあいを上手に出来たのかも知れません。

まあでも、依存症は病気の一つ、と考えてきた(であろう)欧米でも、スマホ脳のコントロールはできていないのだから、日本でできていないのは当たり前と言えば当たり前かもなぁ・・・。