でーれーすげーげー

岐阜県岐阜市に在住です。ブログ名は、岐阜市近辺の方言で、とても感嘆したときに発する言葉です。

わんこの死で自分も変わっていくようだ。

先月なくなった我が家のわんこ、クウガくん。

assoman.hatenablog.com

あれから一月以上たちました。

もう、わんこの柵も撤去し、えさも少し残して処分しましたが、まだ時々、いるのではないかと思うときがあります。

もちろん気配を感じることはないのですが、ふと何かの音をきっかけに、「わんこがいすから飛び降りたときの音に似ているなぁ」とか、思い出すことがあります。朝早くに台所に行くと、そこにハウスがあったので、なんかそのあたりからいつものようにひょっこり顔を出しそうな気がします。

朝私が出勤のために起きると、いったんは顔を出すものの、「あ、仕事か。散歩じゃないんだ」とすぐにハウスに引っ込んでいました。わんこはもういないのだけれど、その「顔を出す前」や「引っ込んだ後」の気配を感じるような気がします。

昨日は、クウガを連れてよく散歩に来た境川緑地に来ました。まあ、そんなに思い出にひたったり、何かを見るたび思い出すこともなく、涙することもないのですが、もうここにも来なくなるのかなぁとも思う一方、今日来て歩けたのはクウガのおかげ、という思いもあります。だから、また来るのだろうと思います。

わんこの写真とお骨が仏壇横に備えてあり、水と残ったえさを供えながら、週に一回お経を読んでいます。まあ、前々から精神統一と先祖供養のために週一回ぐらい読みたいものだ、と思っていたのがクウガの死をきっかけに習慣化しました。

水やえさも時々変えていますから、ご先祖様は「犬の世話もいいけれど、私たちももっと供養してくれよ」と言っているかもしれません。

御仏飯あげているから、それで勘弁してね。

ああでも、次の親父の命日には、44年ぶりにタバコでも供えるか。ハイライトが好きだったよなぁ。

身近な人が亡くなることは、私にはずいぶん縁遠かったです。親父は早くになくなったし、母親は健在です。でも年齢的には定年も近づき、人生は成熟してきています。そんな中でのわんこの死は、自分に少し違う考え方をもたらしているのかもしれません。