様々ないじめの悲劇が生じたり、川崎の事件が起きたりすると「いじめられたら逃げろ!」という論調が生じる。
ただ、自分は何か足りないと思う。「逃げろ、と言われて自分が逃げたら、他の誰かが自分の代わりに犠牲になるから、逃げられない」というのはないのだろうか?
私は、過去のいじめの悲劇には、こういった「自分が逃げたら他の人に向かうから逃げない」というのが多分にあるのではないかと思う。
こう考えるとどんどん暗くなってしまうのだが、「いじめられたら逃げろ!」という論調が必ずしも該当者に届くとは思えない。自分が逃げたら他の人に刃が向かう、という状況を改善できない限り、自己犠牲的に全てを抱え込み、「逃げろ」という大人を「無責任で何も分かっていない」と思うだろう。
「逃げる」の先が必要に思う。