体罰による自殺がきっかけになり、教育界やスポーツ界が体罰問題で揺れている。
興味が無いわけでは無かったが、つらそうな話題なのであまりニュースをしっかり追っていなかった。そのうちに体罰の背景として「勝利至上主義」というものがニュースの論調の中に出てきたが、それもスルーしていた。
今日になって、NHKでもこの問題を扱う番組で「勝利至上主義」という言葉を使っていたように思う。そんなにしっかり見ていなかったので、その言葉がどう扱われたのは知らないが、「何か違うのじゃないか?」と思えてきた。
その違和感は簡単に言えば「体罰があったのは勝利至上主義だったからだ」というのはあり得る話だが「勝利至上主義だから体罰が行われた」という逆は必ずしも成り立たない、と思ったからだ。
「勝利至上主義だが体罰に頼らない方法はあるのでは?」「勝利至上主義は体罰主義になるとは限らないのでは?」という疑問である。
「勝利至上主義」という言葉にはあまりよいイメージを感じられない。そこには「ドーピングで勝利を目指した」とか「審判を買収した」というのも含まれそうだ。しかし「勝利至上主義で近代的コーチングを導入したり、メンバーを最大限生かす方法を考えた」というのもあるはずだ。
「勝利至上主義」という背景を使うなら、「それがなぜ体罰に走ることになるのか?」「体罰なしの勝利至上主義はどうすればよいか?」という見方で分析していかないといけない。
単純に「勝利至上主義をやめましょう」となると、スポーツの本質と矛盾した状態を押しつけることになる。そのうち、その反動で「やっぱりスポーツは勝つことを目指さないとね」となったときに、「体罰無しの勝利至上主義」という方法論がなければ、「やっぱり勝利を目指すなら体罰は必要だよね」という考えが復活してしまう。
その時には、「大阪の事件は、あれは特殊なこと。適切な体罰は必要なんですよ」となってしまうだろう。もうすでに「自殺は体罰のせいじゃない」「彼よりもっと体罰を受けた生徒もいる」といった話が上がってきている。
スポーツ界が揺れているが、勝利を目指すことはスポーツである以上正しいはずだ。手段が間違っていたのでは? そういう観点で改革して欲しい。